本多正信(諫言は婉曲的に行うべし)

本多正信

(1538年三河国生まれ。鷹匠として徳川家康に仕えるも、三河一向一揆が起こると出奔し家康と敵対。一揆平定後は松永久秀への出仕を経て流浪の旅へ出た後、家康の元へ戻る。以後、家康の側近として活躍し、子の本多正純とともに初期の徳川政権を支えた。)

1615年に家康の出した「元和偃武」により、戦国の世は終わりを告げたが、この「平和宣言」が出されても、すぐに時代の移り変わりに対応することは困難だった。
それは家康の家臣たちも例外ではなく、方針や理念を理解できない者も数多くいたため、家康は自分の考えを理解できない者に対し声を荒げることが多くなった。そして、そんな時は必ず正信が割って入り、家康以上に声を荒らげて罵った。これには家康も「言い過ぎだ」とたしなめるが、正信は止まらない。家臣はうなだれ、家康も黙ってしまった頃を見計らって、正信はこう続けた。
「殿が大きい声を出したが、決して憎くて怒っているわけではない。お前に期待しているから、愛情を持って叱っているのだ。この違いはわかってくれ。」
家臣に対して注意するだけではなく、間接的に主君にも「怒る」と「叱る」の違いを再認識させた正信。彼はこのようにいつも汚れ役を引き受け、家康に生涯重用された参謀であった。

本多正信