(1649年下総佐倉藩生まれ。甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。寺社奉行や老中も歴任し、五代将軍徳川綱吉、六代将軍徳川家宣に仕える。)
ある雪の日、喬知は自分の長男・武朝と次男・喬房を連れて町に出かけ、そして屋敷に戻ると「今日の散策はどうだった?」と問いかけた。
武朝は「父上のお供でしたので辛くなかったです。」と答え、
喬房は「寒かったです。父上のお供だとしても、もう御免です。」と答えた。
喬知はふたりの子の感想を受け、こう語りかけた。
「武朝も、本当は嫌だっただろうが、父を意識してやせがまんをしたのではなかろうか。その逆に、喬房は自分を偽らなかった。
お前たちはやがて、人の上に立つ。その時大切なのは、民の気持ちを自分の身に置き換えて考えることで、自分は寒い、それなら民も寒い思いをしているだろうと考えることである。しかし人の上に立つ以上、寒いとそのまま口に出しては見くびられるので、忍ぶことも大切になる。つまり、どちらの考え方も必要だということだ。」
弟のような素直な感性で、兄のように気配りをする。これが喬知流トップの心構えといえるだろう。